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2009年11月01日

尚 豊王(しょうほうおう)


尚元王の三男の尚久の四男。32歳で即
位。在位20年。
尚寧王に子がなく、王の親戚や三司官・
群臣が集って相談し、浦添王子の子尚
恭を王位に就けようと島津家の承諾を
得ようとしたところ、尚恭がまだ9歳と幼く
国を治めることは出来ないとされ、尚恭
の父である尚豊を王位に立てることにし、
薩摩もこれを了承しました。
尚豊王は毎年のように使者を派遣して
冊封を願い出たが、中国側は戦乱を理由
に先延ばしびしていて、結局冊封を受け
たのは即位から10年経ってからでした。
その頃、琉球ではサトウキビの栽培は行われておりましたが、製糖法を知
らないため、儀間真常は儀間村の住人を福建省に送り製糖法を学ばせ、
黒糖を製造し普及させております。また、中山王の称号を止めさせ国司に
改称しました。
また、琉球人民の宗派を調査するということでキリシタン狩りが行われて
おり、これにより、全住民が戸籍を作り直しています。そして、尚豊王は世
子の館(中城御殿)を創設、弁財天堂と照太寺を修復し、「おもろそうし」第
三巻以降を完成させております。

註:島津家に承諾
  この頃から即位には島津の承諾を得るのが慣例となった。
註:サトウキビ
方言では「ウージ」と言い、パプアニューギニ
アで作物として栽培されていたのを、インドネ
シア、インドのガンジス川、中国を辿って琉球
へ伝わりました。
註:中城御殿
  旧中城御殿は今の首里高校グランドになっており、その後前の県立
  博物館跡に移された。
註:弁財天堂
円鑑地の中に建つ堂で、朝鮮国王から送ら
れた経文を収める経堂であったが、薩摩の
侵攻で焼失し円覚寺にあった弁財天を移し
て祀るようになった。
註:照太寺
  伊江島の西崎区ある。沖縄戦で焼失しましたが昭和58年に再建。  


Posted by タクドラおばぁー at 20:12Comments(0)琉球の歴代王様

2009年10月04日

尚 寧王(しょうねいおう)


尚永王に跡を継ぐ男子がなかったため、尚
元王の娘婿・浦添王子の子である尚寧が
26歳で即位します。在位32年。
在位中は豊臣秀吉が朝鮮出兵をする事が
決まり、薩摩藩を通して兵士を出すよう要
請されますが、謝名親方がこれに反対し、
薩摩藩からの再三の要請を先延ばしにし
ます。
また、野国総監がサツマイモの苗を持ち帰り根付かせたのもこの頃です。

日本では徳川幕府に政権が変わり、薩摩
の島津義久から尚寧王宛に「家康に臣下
の礼を尽くしに来るよう」書面が届きますが
この返事に即答しかねているところに薩摩
藩の島津から侵攻され降伏します。以後、琉球は日本と明国の二カ国に
両属することになり、尚寧王は薩摩藩によって初めて首里城を離れ江戸
に連行されます。二年後琉球に戻って来ますが、以後薩摩藩の琉球に対
する干渉が厳しくなり、掟15条という誓約書を強制されます。

なお、奄美大島が薩摩に割譲されたのもこ
の頃で、首里城南殿が創建されたのもこの
頃です。
尚寧王は薩摩から帰国すると、按司掟(あ
じ・うっち)を廃し、地頭代を配置します。
儀間真常が尚寧王と帰国するさい、木綿
の種を持ち帰り、これを植えて収穫し綿布を織らせます。琉球での木綿は
これからの始まりです。
また、島津から譲り受けた朝鮮陶工・張献功を那覇湧田に住まわせ、陶
器を教授させています。
尚寧王は57歳で他界しますが、薩摩の侵攻を許した王として、歴代王が
眠る「玉陵」に入ることを拒み、「浦添ようどれ」に祭るように遺言したとさ
れていますが、本当は生れた地の浦添で深い眠りにつきたかったかもし
れません。波乱万丈にとんだ人生を送った悲劇の国王です。

註:謝名親方
  久米村出身として異例の三司官に抜擢される。島津の琉球侵攻時に
  捕えられ鹿児島に連行されます。しかし、帰国のさい、王・三司官らに
  起請文の提出が求められ、ただ一人連判を拒否して斬首されます。
註:野国総監
  野国とは拝領地。総監とは進貢船の事務職格。
註:サツマイモ
  小禄儀間村(現・那覇市垣花)の儀間真常が栽培法を習い裁植し普
  及させる。琉球では「唐芋」という。
註:臣下の礼
  琉球船が仙台に漂着したとき、幕府の命で薩摩藩島津を通して琉球
  に送り返す事件があった。
註:薩摩に割譲
  これまで琉球の領土であった奄美大島が薩摩の領地となった。
註:張献功
  豊臣秀吉が朝鮮討伐のおり、諸大名が連れ帰った陶工のひとり。
註:那覇湧田
  現在の牧志パラダイス通り辺り。  


Posted by タクドラおばぁー at 16:52Comments(2)琉球の歴代王様

2009年09月19日

神文の水(しんもんのみず)


宮中で行われていた礼式のひとつです。
大昔、王様の即位には吉日を選んで国中
の男女を集め神社の役目の者に祭文を読
ませてから、ウロンの灰水(ウコールの灰
の水)を飲ませたといいます。
中昔になってからは、多くの臣下を護国寺

(波之上)に集め、神様に誓った神文を焼
いた灰を水に入れて飲ませました。
これを神文の水といいます。
これは何時までも忠節を守り、けっして二
心を持つことのないようにという誓いの為です。

註:これは古来からの儀式ですが、護国寺が出来たのが1384年、
  護国寺での儀式は察度王時代からだと思われます。
註:察度王(さっとおう)
  三山時代の中山王で、1392年に首里城を築いたと琉球の
  「球陽」に記されています。  


Posted by タクドラおばぁー at 11:52Comments(0)口碑伝説

2009年09月05日

尚 永王(しょうえいおう)

尚元王の次男。15歳で即位。在位16年。
兄である長男、尚康伯は側室の子であったため、正妃の
長子であった尚永が即位します。
政務ではこれといった特出するものはありませんが、

冊封のときの接待があまりにも素晴らしかったので、
琉球国は遠く海浜にあるが、謹んで聖教に従い、代々
職貢に務む、守礼之邦に称するにふさわしい
」という
言葉をもらい、城門である守礼門に「守礼之邦」の扁額をはじめて掲げた。
以後、冊封使が来琉すると、この扁額が掲げられるようになりました。
また、この頃から、貴族の家々で瓦屋は出始めています。
しかし、薩摩藩島津との関係が悪化し始めます。30歳の若さで病死。

註:瓦
  首里城は板葺きの屋根であったが、尚巴志王の頃、浦添城から
  瓦を移し瓦葺にしたという。(首里城や浦添城から高麗瓦が出土
  しております)その後の再建で赤瓦が使われるようになります。
  尚、高麗は13世紀頃モンゴルが侵略し、大蒙抗争の根拠にして
  いた場所です。その時の高麗瓦職人に造らせ、琉球人が王国を
  建設するときに寄贈されたという。
  (高麗とは朝鮮半島を指し、現代使われている「コリア」の呼称は
   これに由来する。)
註:薩摩藩
  薩摩藩(鹿児島県)は島津義久の代になっており、豊臣秀吉が天
  下を統一しています。この頃、義久は秀吉から「天下統一をしたが
  琉球だけが未だ朝貢してない。今のうちに入貢しなければ、秀吉
  は琉球へ出兵するであろう」旨の書面を受けます。島津は琉球に
  朝貢を促しますが、この年の冬に尚永王は返信をしないまま病死
  してしまいます。  
タグ :王様島津


Posted by タクドラおばぁー at 14:19Comments(0)琉球の歴代王様

2009年07月14日

尚 元王(しょうげんおう)

尚清王の次男で28歳で即位。在位17年。
尚清王が危篤になった時、三司官国頭景明城間秀信が指示する四男尚鑑心との間で世継ぎ争いが起こります。これに怒った三司官の新城安基が王の希望する王妃の産んだ長子・尚元を世継ぎに立てるのが常道、すでに王の遺命を受けていると擁立し諸臣は新城に従い尚元は王位に就いたのです。
尚、国頭と城間はその後流刑になっております。

尚元王は薩摩の島津貴久と友好関係を保つため、島津の使者を歓待した
りしていたのですが、1570年と1572年の二度にわたって島津から派遣
されていた僧侶の接待で非礼があったとして問題を起こします。
また、自ら兵を率いて奄美大島へ再討伐し圧勝しております。


註:三司官
   行政の最高責任者で三司官の上には摂生(せっせい・国相)がいる。
   行政の実務は三人制で行われていたため三司官という。尚巴志王
   の頃、作られた制度で士族が上れる最高の位。古くは王が任命して
   いたが薩摩支配後は親方の中から投票により選ばれた。
註:国頭景明
   久米島に流刑となりましたが、9年後放免となり浦添間切総地頭と
   なり浦添親方と称します。
註:城間秀信
   伊平屋島に流刑となります。娘は尚永王の側室となります。
註:新城安基
   池城毛氏の始祖で長女は尚元王の側室となります。
   古典の「かぎやり風」の中の「今日の誇らしゃ・・・」で始まる歌は尚
   元が王位に就いた時、喜びのあまり詠んだとされています。
註:問題とは
   島津藩の使者に対する非礼で島津から難問を突きつけられます。
   難問とは、
   ①琉球で一番高い山を島津まで運んでくるように。
   ②灰で編んだ縄を持ってくるように。
   ③雄鳥が産んだ雛を持参するように。
   これらすべてを琉球側は智慧でもって解決します。
註:再討伐
   琉球への朝貢を絶ったために行われた。尚この時の大将は金武
   王子である。  


Posted by タクドラおばぁー at 11:23Comments(0)琉球の歴代王様

2009年07月08日

尚清王(しょうせいおう)

尚真王の五男で31歳で即位。在位29年。
尚真の長男・尚維衡(しょういこう)はある罪により父王から首里城を追放
され浦添城に16歳で隠居します。玉陵の碑文には、長男・尚維衡、その母
である王妃、、また次男の尚朝栄(しょうちょうえい)の三名が入る事を禁じ
ております。王妃と側室の間の対立があったものと思われます。事実、尚
清は側室の子であります。
尚清王が明国から冊封を受けたのは即位から8年後であります。これは、
王の五男が襲封(しゅうほう)を受けるのを不信に思った明国側が先延ばし
にしたためで、琉球側は国中から署名を集め、再・再度願い出て冊封の儀
が行われたのです。
在任中は、奄美大島で起こった反乱を鎮
圧し、倭寇に対する圧力や防備も強化しま
す。また、首里城外門として守礼門を創
建、南側外郭の整備及び、継世門の創建、城内の京の内の整備などを行っております。尚、この頃日秀上人が
金武に漂着しております。

註:ある罪とは、父王の側室華后(尚清の母)の胸に手を入れたということで、父王の怒りをかった。これは、華后のしかけた罠にはまったのである。
註:玉陵の碑文
   玉陵の外庭にある石碑に刻まれた文で、陵墓の被葬者の資格を仮名
   書きで記されたもの。石碑は大明弘治十四年九月大吉日(1501年)
   に建てられた。(この碑文を守ったのは尚真までで、尚清王は兄尚維
   衡を玉陵に移葬しており、各王子の子孫もここには祭られず各家で墓
   所をもっております。)
註:王妃
   尚真王の正室で二代目尚宣威王の娘であったため玉陵には入れな
   かったのである。
註:襲封
   諸候が領地を受け継ぐこと。
註:倭寇
   鎌倉時代に朝鮮半島や中国大陸、また東アジア諸地域で活動した
   日本海賊。
註:守礼門
   掲げられている扁額の「守礼之邦」からきている俗称で、正式名称は
   「上の綾門」と言います。創建された当時は現在のような瓦葺ではな
   く板葺きで扁額も「待賢」であった。後に「首里」の扁額が掲げられ尚
   永王の頃「守礼之邦」の扁額が作られました。
註:継世門
   首里城外郭の石造りの門で裏門にあたる。別名「添継御門」という。
   国王が没すると世子はこの門を通って御内原世誇御殿に入り、即位
   の礼を行った。通常は御内原の通用門で赤田に面していることから
   赤田御門ともいいました。1998年5月復元。
註:京の内
   首里城発祥の地ともいわれる聖域で、首里城の三分の一を占める城
   内最大の祭祀空間です。
註:日秀上人
   加賀出身で19歳の時殺人を犯し、高野山に出家、修行で秘法を身に
   付け、観世音菩薩の住む補陀落を目指し那智を出港し金武の富花に
   漂着する。   
  


Posted by タクドラおばぁー at 18:24Comments(0)琉球の歴代王様

2009年07月01日

尚 真王(しょうしんおう)


尚円王の世子で13歳で即位し、
50年という長い間琉球を治めます。
在任中は先島諸島全域を統一し、
安定した政権を実現しました。

また、現在も歴代の王が眠る墓陵「玉陵」を造らせたり、

園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)の石門を整備します。
さらに、尚家菩提寺の「円覚寺」やその側に「円鑑地」を造らせます。

「玉陵の碑文」もこの時に記されています。また、見える業績だけでなく、★武器類はすべて国庫
に収めさせ、非常のさいだけ使用する。★地方の按司達を首里に集めて住まわす。


★鉢巻(冠)の色により階級差別を明確にする。★明国への
進貢を年一回とし、交易により財政を豊かにする。★首里城
の北殿を創建するなど、強固な中央政権を実現していったの
です。また、大阿母知良礼、ノロ、オコデというピラミット型の
神官組織を確立し、さらに、殉死を禁止します。

註:玉陵(たまをぅどん)
   沖縄最大の破風墓(はふうばか)。玉御殿とも霊御殿ともいう。
註:園比屋武御嶽
   国王の拝所でハンタン山一帯をいいます。国王が城外に出か
   ける時、往路の帰路の安泰をこの石門で祈願しました。
註:円覚寺(えんかくじ)
   鎌倉円覚寺を模して創建しました。先の大戦で焼失し、戦後
   放生池や放生橋、総門が復元されております。
註:円鑑地
   龍譚池に接して掘られた池で、池の中に弁財天堂があります。
註:玉陵の碑文
   沖縄に現存する石碑で、古いカタカナ書きで記されています。
   なお、碑文の内容は、玉陵に入るべき9名の名が記され、こ
   の書付に背けば天に仰ぎ、地に伏して祟るべしとある。
註:鉢巻(はちまち)
   浮織冠*国王に次ぐ位を示す。王子・王弟・按司。
   紫冠 *高級官僚の位。親方の肩書きを持つ者。
   黄冠 *中・高級官僚の位。親雲上(ぺーちん)の肩書きを
        持つ者。
   赤冠 *下級官僚の位。里之子(さとぅぬし)、筑登之(ちくどぅん)
         の肩書きを持つ者。
   青冠 *最下級の者。位階に登る前の位。
註:神官組織
   聞得大君を最高司祭とし、大阿母知良礼は官僚の妻や子女。  
   ノロは女性神役一般のこと。オコデとは門中の神人のこと。
註:殉死
   国王が逝去した時に、側近が共に自害する風習が残っていた。     


Posted by タクドラおばぁー at 10:41Comments(0)琉球の歴代王様

2009年06月28日

尚宣威王(しょうせんいおう)


 兄、尚円が即位すると越来間切
(現・沖縄市)の領主となり越来王子
と名乗ります。
尚円王が逝去すると世子・尚真が
幼少ということで群臣に押され即位。
在位半年。
新王を慶賀する「君手擦りの儀」で、
女神官たちの神託により「世子・尚
真を王とする」というお告げを聞き、
越来村に隠居します。この時の女
神官のボスは尚真の姉の聞得大君
加那志(ちひうふぅじみがなし)で、
尚真を王位に据える策略だったのです。
結局、尚宣威は冊封の願いは出さず
一度も進貢はしませんでした。


註:君手擦り
   新しい国王が天下る神を拝む儀式。
   君真物と対をなす。
註:君真物(きみまむん)
   琉球の国土人民を守護するために
   現われる海底に住むという神。
   (聞得大君に憑依して神託するという)  


Posted by タクドラおばぁー at 07:39Comments(0)琉球の歴代王様

2009年06月17日

尚 円王(しょうえんおう)



56歳で即位。在位7年。
伊是名島で生まれ24の時妻子を連れ島を離れます。
27歳の時単身首里に行き越来王子(後の尚泰久王)に
見出され、尚思達王の雑役係りとして王府に勤めます。
尚金福王の時黄冠(ペーチン)の位に就きます。また、
越来王子(尚泰久)が王位に就くと内間地頭(現・西原
町)に任じられ、45歳の時、御物城御鎖之側(おものぐす
くおさすのそば)に昇格します。
翌年、尚泰久王が逝去すると息子の尚徳王に仕えますが
意見が合わず、内間村(現・西原町)に隠居しました。
しかし、尚徳王が死ぬと群臣は世子を殺し金丸を擁立、
王位に就きます。金丸は明国にクーデターが起こったこと
がばれるのを恐れ、そのまま尚徳の子供として冊封を受
け、「尚」姓を引き継ぎ名乗ります。
尚円王は当之蔵に天王寺を創建し王廟とし、また、第一
尚氏の祟りを恐れ崇元寺を創建、歴代王の霊位を奉安し
祀りました。その後歴史に残るようなことはなく、62歳で
逝去。


註*御物城御鎖之側
    貿易長官。王様への取次ぎ職も兼ねていた。
註*天王寺
    毘沙門天を本尊とする臨済宗寺院で、円覚寺・天
    界寺とともに王府の三大寺の一つ。
    現在は首里教会となっていますが、門の一部と石
    垣の一部が残っています。  


Posted by タクドラおばぁー at 17:07Comments(0)琉球の歴代王様

2009年06月13日

第二尚氏王統



尚泰久王に仕えていた重臣・金丸が、尚徳王没後たてた
王統で、尚円王統とも呼ばれている。
琉球処分まで19代409年間続いた。  
タグ :王様


Posted by タクドラおばぁー at 15:50Comments(0)琉球の歴代王様